高校の頃まで、ゆくゆくは日本を離れよう、と思っていた自分のことを、思い出す。
ちょうどそんなときに、3週間過ごしたオーストラリアで、その思いは逆転する。
この国のこの街の心地よさは、ここに暮らすひとたちが作り上げたものだと気づいたから。
その場所の時間や空間が心地いいと感じたぼくがすべきことは、移住ではなかった。
いま自分が暮らす場所を心地よくしていく。10代の半ば、その視座をもった。
あの日、新しい鳥のさえずりを聴いて目を覚ましてから、10年が経っている。
この10年間、上の理由から、海外に、ぼくは一切興味をもってこなかった。
10年後の夏の終わり、ぼくは猛烈に、海外に惹かれている。
放射能が怖いから、ではない。
ぼくを含めた日本人の「コミュニケーション」に対する解釈・姿勢について、
ぼくの感性が、強く違和感を発しているからだ。
語り合うことの意味を、失念している、あるいは初めから知らない(不要?)人々なのではないか。
世界的にみても、この状態は、ここだけ、ぼくらだけなのではないか。
もしかしたら、ぼくは、隣の庭に憧れているだけかもしれない。
ぼくはそのとき、自分の誤りを真摯に認めなければならない。
しかしもしこの違和感が、この国独自がもつ現象に起因するもので、かつ病巣であれば....。
どちらにしろ、それを考える上で、見聞を広める機会が必要なんだと思っている。
世界が、もう語り合うことを止めてしまっているのか。
それとも、この島国だけのことなのか。
ぼくの違和感は、思い込みの激しい、かぶれた阿呆な青年の感傷なのか。
いや、生命体が本来もちうる当然の危機感なのか。
ぼくはそれを確かめたい。