庭のBBQ










先日、実家で、ウチダ家構成員それぞれの友人も集って開いたBBQ。
総勢20名ほど。全員が写り込んでいる写真が一枚もとれない、この規模。
肉焼いて、酒飲んで、きりたんぽ食べて、寒くなったら、リビングへ。
友人のミュージシャンが、ライブハウスのパフォーマンスばりのライブを。
ドイツの、イタリアの、クリスマスケーキと、各種酒、酒、酒。

相変わらず、ウチダ家は、独特のどんちゃん騒ぎが好きであった。



土間の忘年会









先日、我が家の土間で、山辺の仲間たちと忘年会。
この土地に生まれてからずっと暮らす者もいれば、
流れ流れて、いまこの土地に腰を落ち着かせた者もいる。

とどまることと移ろうことを不断に繰り返しながら、
人間という生きものは大きなコミュニティを形成する。
大きな河川を形成する、小さな流水。
大きな森を形成する、小さな木々。
この集いが、人間の成す大コミュニティの、肝心であること。


飯が美味かった。



戦場、そして戦渦







松本の箒(ほうき)・東京の塵取(ちりとり)



松本に移り住んで、もうすぐ2年。

引っ越しとともに手に入れた松本ぼうき。
この秋、相思相愛の相方と、ようやく巡り合えた。

ちりとりは、東京からのトタン製品。
東京も、ひとつのローカルなんだということが、よく理解できる。

誰しもに、ローカルがある。
それは単に「土地」の話ではなくて、「どこから来たか」という。
ぼくはそれをよく「出典」と訳している。

自分の出典を知る、探す、思い出す。
そんな旅路。



本心

昨日から友人の子ども(3歳と10ヶ月)を預かっている。彼の一挙手一投足、その日々の成長に感銘を受ける。命が生きることを率先して営む姿は、こんなにも美しい。ぼくはこういう小さな成長―人間に限らず―を、十分すぎるほどに観察していたい。

本音を言えば、環境問題も、原発事故も、政治の不在も、かかわりたくない。どうでもいいとも思っている。が、ぼくの生きている世界は、ぼくが物心ついた頃からすでに、そういう世界だった。だから、かかわらざるを得ない状況にある。見てみぬふりもできる。が、ぼくが少なからずそうした課題にかかわってゆくのは、社会や世界を改善したいからではなく、ぼく自身に巣食っている闇との均衡を図りたいからだと、思う。

正直に告白すると、いつも親世代以上の人間たちに邪魔されてきた、と感じている。以前ぼくより20ほど年の離れた友人とその話をしていたら、彼は「どの世代もそれを繰り返しているんだなあ」と言っていた。ただ、それまでの世代間の摩擦が文化的なものに起因するのに対して、ぼくらの世代が火花を散らすのは、もっと根源的な、命の危機、という点に対してだと思う。

実はつい最近まで、もうそういう恨みの感情は清算できた、と思っていた。思い込んでいた。が、今年、創作の再開とともに、自らの感情の歴史をもう一度紐解いていったなかで、その恨みや憎しみがいまだに消えていないこと、いまなお学ばない彼らにその感情がさらに闇を濃くしていることを知った。

「憎悪によって物事は解決しない」のはわかる。が、それは「解決することを目的に定めた場合」のロジック。憎悪の存在そのものを、ぼくは否定しない。ぼくが頷いてあげなければ、この世界で、いったいだれが、あの独りぼっちの感情を抱きしめてあげられるのか。

環境運動家でさえ、「もっと希望的な話を」と請うてくる。冗談じゃない。晴らす方法もわからずに闇を覆わせておいて、そのなかで生まれた子どもに「光を探さないのはナンセンスだ」と追及してくるなんて、そちらのほうがナンセンスだとぼくは思う。「よりよくする」ということばかりに執着して、「いまどうであるか」に意識が向かない。それは、戦後、盲目的に「よりよく」を目指してきた歴史と、何一つ違いがない。ベクトルの方向は異なっても、ベクトルそのものの形成に学びがない。闇を振りまいた張本人たちが、闇の存在が怖くてならず、「始まり」をどうにか探し出して、いま目の前に横たわっている「終わり」の一部始終から目をそらす。ぼくはそれが、我慢ならない。

ぼくの書く物語は、どこかで自らに宿る憎悪に呑まれまいと必死に抵抗している葛藤のかたち、しかしいっぽうでそんな感情のことが可哀想でならないという奇妙な自己愛のかたちなのかもしれないなあと思う。そんな動機で、ものが書かれ、人に読まれることがいいのかどうか、わからない。が、読むも読まないもその人の選択に委ねられている。人間という自然の一部の、そのまた最中に「ぼく」という自然が存在している以上、これは仕方のないことだ。受け容れるなり、受け容れないなり、してもらえればいいのだと思う。


再編集の頃

自分史30年間を再編集するときが来たんだなと実感している日々。
自己に対する意識が芽生えた高校生の頃に一度。
二度目は大学卒業の頃、自分以外の違和な存在との関係性の構築に挑んだ。 

そして今。
過去二度の、そしてそのあいだに何度も重ねた数多の小さな修練を、
ぜんぶひっくるめて、もう一度編集し直す時期が来たと、感じている。
こういうときは、皮膚上の輪郭が蠢く感覚になる。

年齢が高くなればなるほど、再編集する年月の嵩も増えているし、
またそのひだの隙間に詰まって見えずにいた「本当」も意味が濃くなっている。
そういうものひとつひとつに向き合うのは、今まで以上に酷だろうなあと思う。
周囲の人間にも、いろいろと迷惑をかけてしまうかもしれない。
で、本人が言うのも何だけれど、仕方がない。 

唯一の救いは、「経験している」ということ。
再編集という営みの必要性も、重要性も、過酷さとともに知っている。
そして、編集後の脱皮の心地よさもまた、ぼくのからだはちゃんと覚えている。

この営みを意識下に持ち上げることができたのは、友人のおかげ。
いま彼女は子を産み、育てている。
時間が流れているんだ、と感じる出来事だ。

再編集をいざはじめると、一度、自分の存在が曖昧になる。この瞬間は、怖い。
いまその怖さの岸壁に立って、飛び降りるタイミングを待っている。
谷は深い。空は高い。人生は、遠い。



語り合う世界

高校の頃まで、ゆくゆくは日本を離れよう、と思っていた自分のことを、思い出す。
ちょうどそんなときに、3週間過ごしたオーストラリアで、その思いは逆転する。
この国のこの街の心地よさは、ここに暮らすひとたちが作り上げたものだと気づいたから。
その場所の時間や空間が心地いいと感じたぼくがすべきことは、移住ではなかった。
いま自分が暮らす場所を心地よくしていく。10代の半ば、その視座をもった。

あの日、新しい鳥のさえずりを聴いて目を覚ましてから、10年が経っている。
この10年間、上の理由から、海外に、ぼくは一切興味をもってこなかった。
10年後の夏の終わり、ぼくは猛烈に、海外に惹かれている。
放射能が怖いから、ではない。

ぼくを含めた日本人の「コミュニケーション」に対する解釈・姿勢について、
ぼくの感性が、強く違和感を発しているからだ。
語り合うことの意味を、失念している、あるいは初めから知らない(不要?)人々なのではないか。
世界的にみても、この状態は、ここだけ、ぼくらだけなのではないか。

もしかしたら、ぼくは、隣の庭に憧れているだけかもしれない。
ぼくはそのとき、自分の誤りを真摯に認めなければならない。
しかしもしこの違和感が、この国独自がもつ現象に起因するもので、かつ病巣であれば....。
どちらにしろ、それを考える上で、見聞を広める機会が必要なんだと思っている。


世界が、もう語り合うことを止めてしまっているのか。
それとも、この島国だけのことなのか。
ぼくの違和感は、思い込みの激しい、かぶれた阿呆な青年の感傷なのか。
いや、生命体が本来もちうる当然の危機感なのか。
ぼくはそれを確かめたい。


未来を考える人間企業



7月末、大阪に行った際に見つけて、ずいぶん思いきったショルダーコピーだなあと、写真を撮っておいた。「未来を考える人間企業」。コピーというのは、奇抜だったらいいというものじゃない。むしろ、たいていの場合、「当たり前だがだれも気づいていないことを発見する」ことがコピーライティングの仕事だと思う。「発見」であって「発明」じゃない。生きものが未来を考えるのは当たり前だし、企業がほぼすなわち人間そのものであることも、やっぱり当たり前だ。目にした人は「なんだ、そりゃそうだろ」と言う。でも、「当たり前」を見つけることも、言い切ることも、とても勇気と覚悟と決断力がいることだ。

あとで調べてみると、このコピーは、NTT民営化直後に付されたものらしい。NTTの民営化は1985年。その頃、この「未来」は「人間のみにとっての」想定で語られているんだろうと思う。そう想像すると「人間企業」という言葉にも影がさしかかる。時代が変われば、価値観も変わる。見えていた世界は見えなくなり、同時に、見えていなかった世界が見えてくる。希望が差すこともあるし、絶望が覆うこともある。

「未だ来ない」いつかは「やがて来るもの」と疑いの余地すらない時代は、もうすでに終わっている。「もう来ないかもしれない」という先を見据えて、どうあろうとするのか。「未来を考える人間企業」だけでは不十分になった。ぼくらはどんなコピーを、肩にかけて生きていこうか。



リアクションの表情


twitterやfacebook、ブログに載せたメッセージに対するリアクションをみていると、感じる。たとえば広告制作の書き込みでも、楽しげで、かつイメージがすでに持てる「アフリカ・いのちの輝き」には反応があるいっぽうで、「ヨコハマbデイ2011」のようなイベントタイトルの意味や「生物多様性」といったそのテーマが難解だったり不明瞭だったりすると、スルーされている。広告制作の観点からいえば、ターゲットが感じてしまう「難しそうだ」「ちゃんと読まないとわからないからめんどくさいな」といった印象を乗り越える広告をつくることが必須になるのは、当然の話。

でも、解せない。

経済でも学力でも世界ランクからずり落ちている日本人たちは、最後の悪あがきのように「識字率の高い日本」と語る。世界では、字の読み書きができないがゆえに、正しい情報と分析、思考、想像、創造ができず、その障壁を乗り越えようとしている国が多数ある。日本は、ほとんどの子どもが、そして大人も、字を読み、書ける。本来ならば「字の読み書きができる」ことはそのまま「知り、考え、イメージし、動いてみる力がある」ということになるはずだ。もし日本が本来的な意味の「識字率の高い国」であれば、「読んで考えなくていい」広告を作る必要はないんじゃないのか。

日本の識字とは「字を知っているだけ」なのかもしれない。日本では、言葉が「知っている」ということだけですでに足りているツールになっているのかもしれない。言葉が、考える種や、イメージを膨らませる水、動いてみる熱にならない。言葉はただの置き物として、家の戸棚のどこかに飾られて、埃をかぶったまま、一生を終える。

読みたい。考えたい。創りたい。そう願って生きている世界の人々の先端で、ぼくらはなんてぞんざいな生きかたをしているんだろうと思う。こんな国と、こんな人たちと、後の人生を一緒に過ごせるだろうか。心が離れていく。



もうひとりの彼と


29歳になる今年、高校生のある男の子と出会って、ぼくは彼と話す時間、あの頃のことを思い出してみた。そんな機会をくれた彼に、まず感謝を伝えておきたい。どんなに注意を払っていても損ねてゆく自分の心の足跡を、もう一度振り返るきっかけをくれたのだから。

彼がいま、そのからだのなかで格闘し葛藤しているもうひとりの彼のことを、高校生のぼくもまた知っていた。因果関係を意識できていなかったけれど、ぼくもまたもうひとりのぼくと語り合うために、あるいは逃げるために、一人旅を重ねたし、幾人かの女の子たちに甘えた。あの頃の孤独や周囲のひとたちに与えた傷のことを思い返すと、いまでも罪深さを感じる。人は「悔いのないように今を生きよう」なんて言うけれど、悔いはみな後で起こるものだから、そんなことは不可能だ。そうじゃない。人にできることはただひとつ「いまそのときをそのように生きて」そして「後になりただひたすら悔いて」あることだ。

そして、最近思いはじめていたことだが、あの頃ぼくが出会った「もうひとりのぼく」は、やはりまだ、というか、当然、ぼくと一緒に今も生きている、ということ。自分という人間の相変わらずさに辟易とし、絶望する。「決して彼のことを追い出してはならない」と自ら愛の言葉をかけてやれるまで、相変わらずぼくは葛藤する。人間は、たぶん、生まれた瞬間から、この輪の上をぐるりぐるり歩いているんだろう。昔のことはただ忘れてしまっただけで。

彼を救うようなことはぼくにはできない。彼を本当に抱きしめてやれるのは彼自身、もっといえば、その「もうひとりの彼」しかいない。日本経済にも、社会規範にも、立身出世にも、なんら役立たない、「もうひとりの彼」との長く孤独な会話のための時間と場所を、彼はこれから、やはり独りで守らなければならない。その労苦を思うと、胸が締めつけられる。その過酷に彼が負けないでいられること、ぼくにはそれを願うことしかできない。生きることの孤独を、彼が手放さないで生きることを、強く祈る。



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