子どもの目の前に、ぼくは立っている。



創作にいたっては4年ぶり、一冊の本にまとめる作業は7年ぶり。
ここ数日、ささくれ立っているのは、久しぶりに「創出」の生命活動をしているからだろうか。
それとも、ぼくの目に映る、大人たちの悲しくて、寂しい、一挙手一投足のせいか。
あるいは、その一つひとつに感情的になる、愚かで哀れな自分に対してか。

10代の頃、ぼくは思ったはずだ。こういう大人には、決してならない、と。
たぶん、あの人も、この人も、彼も彼女も、そう思った時代があったにちがいない。
ちがいないのに、なぜ、いま、そうなるんだろうか。
あのときの苛立ちをいまだに再現できるぼくが、幼い、そうなんだろうか。


子どもたちの目の前に、ぼくは立っている。
悲しい大人を、見せたくない。
本当に、ぼくは見せたくない。



祝!『チャンネル』第1号発行

 


朝の連続テレビ小説を観ようと思ってチャンネルぱちぱちやってるのに、テレビがつかない!あーなんでだー!って、それ、チャンネルちがいだよ。(ちなみに正しくは「リモコン」です)

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長野市に新書書店兼編集事務所の「チャンネルブックス」(6月1日現在ウェブサイト制作中)がオープンする。書店兼事務所のオープンと同時に、隔月発行のフリーペーパーもスタート。記念すべき第1号は、長野県内の本屋さん特集。代表の島田さんがいうには、同時期、長野市には古本屋など新たにオープンする書店が数店舗あるんだとか。松本移住以来、長野県内で若い市民の躍動感をもっとも感じられるのは長野市だなあと思っていたけれど、やっぱり熱い。







北軽井沢の「麦小舎」も、もちろん掲載。麦小舎が演出するゼロ地点にすっと戻れるあの空気感はだれにも真似できない。オーナーの藤野夫妻の人柄なんだろうなあと思う。ぼくみたいな毒気の強い人間にはあれはできないのである。個人的には、小雨の降る麦小舎がオススメ。(というか、ほかの天気をぼくは知らない。なぜかぼくが行くときはいつもそんな天気)





そして何を間違ったか、我が「ブックパッカーのアンテナサイト」も載ってしまっています。「本をまっすぐに扱う」健全な書店と並んで掲載していただくには相当逸脱した場所ですが、仲間に入れていただけるのはとても嬉しいこと。今年は一緒に仕事もできるといいなあと思っています。乞うご期待ということで、まずはフリーペーパー『チャンネル』をどうぞ読んでください。(もちろん、アンテナサイトにも置いてあります。)



美しい不安 トールモー・ハウゲン『夜の鳥』

トールモー・ハウゲン



一言で「美しさ」と言っても、その様相はさまざまだ。柑橘の果実の新鮮が弾ける美しさもあれば、女性が覗かせる丸みを帯びた肌の甘い美しさもある。とくに、細い白の糸が今にも切れそうに張りつめている不安な美しさが、ぼくは好きだ。美しい不安は、安易に解消させられることはない。「受け止める」でも「受け入れる」でもない、正直な感触としては「もうそうせざるをない」がゆえにそこにただひたすら居座りつづける不安。「暗い」や「冷たい」とはまったく異質の、静かで、わずかな湿度のある、詩的な、不安。そういうものの美しさに、惹かれる。

2008年に亡くなったノルウェーの作家トールモー・ハウゲンの代表作『夜の鳥』は、まさに美しい不安の結晶のような物語。3月11日以降、それまでの日々と変わらない一日であるようでいて、まるで被災地で沈下した地盤のように世界は確実にズレてしまって、それが元に戻らないことを感じている。火は立たないのにいっこうに消えない煙のようなこの不安を、ぼくはもう少し確かめていたい。先の週末、この物語は、テーマは違えど、そんなぼくの「いま居たい場所」を守ってくれた。

『夜の鳥』には、続編もあるのだそう。読んでみようと思う。

池袋・目白・雑司ヶ谷をフィーチャーするフリーペーパー『Sai』休刊




昨日の午前中、待っていた品が届いた。『Sai』は、東京の池袋・目白・雑司ヶ谷をフィーチャーするフリーペーパー。このフリーペーパーの特筆すべきポイントは、地域活性を目的とする読み物の多くがそうであるような「単なる情報誌」や「ローカルな内輪トーク」にならずに、常に「愛すべき街の物語」を書きながら、そのストーリーを「外へ、心地よく、伝える」意識が高いこと。手にとれば一目瞭然、これがフリーペーパーであることに驚くし、さらに学生たちが手がけていることに舌を巻く。編集長の関根悠二君には、今号にも掲載されている目白の古着屋BAROで会ったことがある。いずれゆっくり語りたい人だ。

関根君の3月の大学卒業を期に、『Sai』は休刊するらしい。この「外と連なっていく」ニュアンスは誰もがもてるセンスではない。彼や仲間たちのその感性が、今後も世間に触れるかたちで表現されていってほしい。「どこかの誰か」にはなってほしくないと勝手に願いながら、最新であり、最終である今号を読んでいた。

ブックパッカーのアンテナサイトに数部設置しているので、ぜひ。

「最初は優しく近寄ってきて、そして秘密を交わすんだ」

衛星放送で今も放映している「ER 緊急救命室」を、先日実家に帰ったときになにげなく観ていたら、医者がこんな告白をする。「やつらはいつもは良い人を演じている。最初は優しく近寄ってきて、そして秘密を交わすんだ。気づいたときにはもう手遅れさ。罪の意識に追われるようになる。」医者には幼い頃、大人の男性との性交関係を強要されていたという設定。数年ぶりに観たこの番組で、なんでこういうシーン。

ちょうど読んでいた本は、キャスリン・ハリソンのノンフィクション『キス』。牧師だった父親との関係が赤裸々に、叙情的に語られている。だから、「ER」の彼が泣きながら語ったその台詞が、妙に身近だった。

読んでいても「暴露本」という安易な印象にはならないのは、文章がものすごく詩的だからか、フィクションとノンフィクションを行きつ戻りつしている感覚に陥る。美しくも、ときに怪しく、危険な香りを強烈に放つ。近親相姦という暗闇に苦しみながら、その快楽(何に快楽を感じているのかは、彼女の場合、数種あるのだが)に恍惚としている様が伝わってくる。彼女の周囲にいる人々、特に家族たちは皆、それぞれに強い信仰心を、それぞれの対象に抱いている。その信仰の深度があまりに鋭利で、直進的で、まあ病的。アメリカという国の「誰もが移民」という不安定が、こういう表情を浮かばせるのか。

表表紙の写真に写る女性は、著者の若かれし頃の写真。父親が執拗に撮りつづけた娘の写真。読み進めるうちに、彼女の表情の意味を知る。

翳りゆく楽園を、未来への周遊券を握りしめて、蒼井優と旅する。

本の評論なんか書く気にならないし、本の推薦も世に溢れているのでつまらない。そういう「本」が前面にパワープッシュされるものが嫌になってきた。それよりも、小さな会話のなかにアドリブで登場してくる本のほうが愛しい。本なんかに囚われて生きていると、本を生かしきれない。

翳りゆく楽園を、未来への周遊券を握りしめながら、蒼井優と旅していると、そんなふうに思った。ブログにわざわざ載せるんだから、面白かったにちがいない。そう察してくれよ。とだけ言い残して、また旅に出ます。

『世界屠畜紀行』の内澤旬子さんとTwitter上で話したこと


この『世界屠畜紀行』を読んだのは2007年。もう3年前。確かこの本のことは以前書いた気がするから、飛ばします。あちこちのサイトやブログにレビューが書かれているし。読んだらいい本の一冊であることに間違いはありません。

10月のあいだ各局のニュースで騒がれた熊問題。熊の被害から人間の生活をいかに守るかというほうに意識を強く持って動くひとたちと、動物愛護・自然保護をベースに熊の生活を守ろうとするひとたち。この両者の考えが渦巻く人間と熊本人(?)たちのことが、屠畜の現場をリポートしてきた内澤さんの目にどう映るのか、そして何を思うのか聞いてみたくて、Twitter上でお尋ねしたところ、お返事をくださいました。とても考えさせるコメントだったので、みんなとも共有したく、その内容をここに転載します。


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ウチダ:
ぼくも「可哀想だから殺すな」というのは説得力に欠けるかなと思います。原因はなんであれ人間も「生きる」ために手を打たなきゃならない。問題は熊が降りてくる原因がこちら側にだいぶあるという点。その罪悪感というか。そこらへん含めて内澤さんはどう思ってますか?

内澤さん:
熊というか地球全体に対する罪悪感は常にあります。こんなに「向いてない」種が生態系を下手にいじったばっかりに、自分たちの生活をまもりつつ「元」に近い形(これもとても疑問ですが)にするもしくは維持するのに手を入れ続けなければならないわけで、そんな難題、根を上げたい。

内澤さん:
熊問題に関しては、テレビをちらちら見た素人見解ですが、やっぱり原因がよくわからないというか、山がこの六十年でどう変わったのかをもっと教えて欲しいなと思ってます。戦後の林業政策で針葉樹林を植えたのが山の生態系が荒れたと読みましたが、それなら五十年くらいまえから広葉樹は切られてしまっていることになりはしないかと。ならばもっと以前から熊は里に出てきてもいいような気がしてしまうのです。長いスパンで山の変化と熊について見てきたひとに取材してほしいなと思ってます。

ウチダ:
「そんな難題、根を上げたい」正直な見解を聞かせてくださってありがとうございます。ぼくはいま28ですが、10代半ばからこういうニュースを見聞きしていて、否応にも生活のなかで考えざるを得ない人間になってしまっているのですが、知れば知るほど問題の根が深く、かつ、そもそもどこに問題があるのかも見定めきれていない状況もあって、やはり「根を上げたい」と思うんですね。といいながら、やっぱりどうにかならないのか、どうにかしたいと思う。同じように、フラットな姿勢で提供される情報を欲しています。

内澤さん:
私はいま43です。小学生だった70年代後半、公害ニュースが多く流れて乱開発による自然破壊も取りざたされていました。戦前生まれの母は水を汚してはいかんと物心ついたときから今もずっと洗濯石けんで洗濯。そしてご存知ないと思いますが、ロールが二個ついてて、そこに挟んで把手を回すと洗濯物がせんべいのようになって出て来るという、当時でも相当アンティークな洗濯機を使い続け、黄ばんだ体操服、そして脱水機がないから乾かずに半分濡れてる水着を体育の時間に着せられてました。子供心に地球のためって思って我慢してました。

内澤さん:
カップラーメンも禁止。地球のためだと思ってました。子どもなんで。世の中もきっとそのように変わっていくと信じてました。子どもなんで。で、そのあと狂乱のバブル時代とともに大人になり、無意味な箱が地方に乱立するのを見て、腐りました。腐りすぎて、エコなんて言葉で今更なんじゃあっ、何十年無駄にしくさったんじゃあっと、少なからず思っております。しかし今さらでも何もしないよりはマシというか、やらねばならないのでしょう。
それにしてもヒステリックに煽るよりは、冷静に全体を把握し、俯瞰することが大事なんだろうに、相変わらず目先の直近に見える所ばかりにフォーカスしてまったくつきあってられんわ、と、放り出したくなる気持ちと日々闘っております。ただ本当に時間のかかることみたいなので、あまり我慢するのももたないなと、夜中にカップ麺を食べたり、酵素系ですけど漂白剤をかけ、白シャツをパリッと来て気分をあげたり、絶滅危惧種でない野性獣の肉を食べたり、うさちゃんだけど毛皮のストール買おうとしたりしてます。なにもかもを一気に我慢しつづけるには人生長すぎました......。

ウチダ:
さらにお返事くださってありがとうございます。ぼくは環境保護周辺の広告を作ることがたびたびあるのですが、悩むんですね。広告を出すNPO/NGOは「こんなにたいへんな状況。みんな聞いて!」と言いたくて、いっぽうで受け手の多くは、その熱気には気後れしているというか。じゃあそうならないようにと「楽しみながらエコ!」と打ち出しても、今度はどうも未消化なところがどこかに残っている。このコミュニケーションをどうにか成り立たせないと、互いに未消化物がおなかに残ったまま暮らしているようで、いやいやこうじゃないなあと思っていたところです。
みんなが迷いなく活動しているようで(思っていてもたぶん言わない)ときどき困惑してもいたので、お返事の内容にホッとしています。2日に渡り、ありがとうございました。


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どうなんだろうと思う。ぼくなんかは「これをすべきだ」というメッセージだけだとまだ発信者との距離を埋められない感覚があって、そこまでだと一緒に行動をともにしたい気持ちにならない。「これをすべきなんだ。でもこんなことも思う。」とそのひと個人が現実に感じている迷いや葛藤までを表現できるか否かが、無意識に判断基準になる。

ある種が他の種を駆逐していくという現象は、生態系のなかでごく自然に起こっていることだと思う。航空機や船、自動車などのさまざまな人間の交通網によって、世界の生態系が画一化していく現象や、人間の経済活動(戦争も含む)によって破壊されつづける環境のことも、人間もまたひとつの「生きもの」だとすれば、それはそういうこと、と言ってしまうこともできる。「生態系は絶妙なバランスのなかで成り立っている」とはいっても、生態系そのものに、あるいはその生態系を形づくっているそれぞれの生きものに、その思惑はないと思う(現時点でそんな意思は解明されていないと思う)。「いまは成り立っている」ということであって、「未来永劫そうでなければならない」というルールはどこにもないし、「絶えず変容していくことが自然」と捉えれば元も子もない。そうしたときに、果たしてこれが問題なのか、ということすら気になってしまう。結局のところ、人間の言う「世界」や「自然」は、人間の解釈するぶんでしかない。ハワイで大繁殖して勢力を拡大する野生豚は、「元の生態系」などおかまいなしだ。この論法では、生態系の保護云々は説得力が弱い。となると、COP10の各議題の根っこにある「人間のための生物多様性」という理解しかできないし、それでいいのかもしれない。

ここらへんのことを釈然としないのがストレスなのではなく、ここらへんのことについてモヤモヤしているそぶりもみせないひとたちがいることに戸惑うのです。本当はモヤモヤしているのか、いや、彼らには迷いを打ち消すぼくの知らない理解があるのか、そこを知りたいと思う。だから内澤さんが少し語気を強くして、いまの「エコ」やさまざまな運動に対しての思いを語ってくれたことが嬉しかったです。内澤さん、ありがとうございました。

もっとこのモヤモヤ(あるのならば)を、みんなが吐露したらいいんじゃないか。ぼくはそう思うんだけど、果たしてみんなはどう思うのか。ぜひ教えてください。


*Twitter上のコメント掲載について、許可のお返事をいただいていません。
 不都合がある場合は、変更もしくは削除などさせていただきますので、ご一報ください。

ぼくらの輪郭と、日本の海岸線


実は、「読みたい本」はほとんどない。「読みたい本」というのは、本屋に行って、本棚の前に立って、本を手にとって、ページを開いて、あとがきやプロローグをさらっと読んで、という一連の作業をする以前に、「その本を読もう」という意識があって選ばれる本のこと。そういう定義での「読みたい本」はもうほとんどなくて、あるのは、本屋に行って、本棚の前に立って、本を手にとって、ページを開いて、あとがきやプロローグをさらっと読んで、「うむ、これ、いけるんやないか」と思ったゆえに手にとる本、いわば「読む本」だ。この「読む本」というのが、本人が想定している以上に多い、ということを、最近感じはじめている。

それでもいくつかの指標はあって、そのひとつが出版社。ぼくなら、理論社、パロル舎、福音館書店、河出書房新社、冨山房あたり。そして、ミシマ社。ここが出している本なら、ひとまず、ページをめくってみよう、という気になる。で、今回もその一冊を読んだ。

この本、一見すると、海岸線の変化についての地理学的な論説書のように思われるけれど、ちがう。語られているのは、(日本が舞台なので)日本の海岸線が、縄文から明治維新、その後に至る、そこに暮らす人々のありかたの変化とともにどのように変わってきたか、についてだ。たとえば、「白砂青松」の海岸線の始まり、砂浜の消失、地名から浮かび上がるかつての港、黒船到来による「海の玄関口」の興亡など。「No Border」という安易な世界観を描いた現代のぼくらが自分たちの輪郭を見失っている、この状況のなかで、「海岸線を取り戻す」という著者の視座と指摘は意味深く、鋭い。

混迷を極めるこういう時代に、どういった社会システムを再構築したらいいかという抽象の話だけに偏らないように、物語を読んだり、図鑑をめくったりすることは重要だと思う。古代から現代にかけての自分の暮らす島の「時の流れ」を感じる、そういう壮大な視点に触れることもまた、意義がある。これはまさに「読む本」だったな、と思えた一冊。

聞く力のある国

昨日は午後になって、来客。ブックパッカーのアンテナサイトに、初めて信州大学の学生がやってきた。アンテナサイトの客層は、感触的には男女半々だが、来客履歴を見てみると、やはり女性のほうが多い。で、学生第一号は、男性だった。

自分のいまを言葉化する意欲が十分に備わっていて、嬉しかった。東京にいた頃、たくさんの学生と出会ったけれど、自分を言葉化・音声化して伝えることのできる学生は多くなかった。すべての営みの大半を、言葉を通してのコミュニケーションによって支えているのが人間であるから、その大前提となる「自分の言葉化・音声化」がいま日本人に足りなくなっているのであれば、日本人の先はそこそこもう見えてしまっていると思う。だから、アンテナサイトにやってきた最初の学生が彼のようなひとであったことが、嬉しい。

自分というのは、自分そのものであるかのようでいて、実は「もう一人の自分」という要素が濃い。平易な言葉を使っていて、なのに妙に説得力のある話者は、そうした、自分との会話に長けている。彼らは「話し上手」なのではない、「聞き上手」だ。聞く力をある程度備えていれば、それが他者や社会、さらに世界、100年スパンの未来図、といった他の対象との会話も、うまくやっていける。

明確な国家ヴィジョンを国民に描けずにいるここ数十年の日本は、「聞き上手」な国ではない。先の参院選でいまだに「成長」を掲げる自民党は最低だったし、なかなか良好な国家ヴィジョンを打ち出して、聞く耳のある政権与党になったかなと思わせてくれた民主党も最近では尻すぼみになっていて、これだけ国民が自分たちの声を政治に届けようと腹を決めた時代はここ数十年のあいだにはなかったことなので、彼らのもうひとつ軟弱なさまは寂しい。

ここでぼくら一般人に何ができるのかというと、政治家を嫌うことではなく、助言(次につながる批判も含めて)と応援を送ることなんだと思う。政治家の醜態にどんなに呆れても、結局のところ、この政治家を選んだのはぼくらなのであって、この国がうまく立ち行かない最大の原因は、ぼくら自身にあることを知ったほうがいい。で、ぼくら自身のどこに問題があるのかというと、つまりそれこそ「聞き下手」だというところだと思う。

この本は、国を動かす本来の舵取り役であるぼくら一般人に、その聞く力を教えてくれている。著者の本を読むのは初めてだけれど、彼の描く国家ヴィジョンと、それに必要な「産業構造のシフト」「成長論から分配論へ」「市場メカニズムの尊重」といった戦略図、そしてそれを支え運営していくための組織体制やルール案は、ひとつの図案に収まっていて、とても理解しやすかった。また、後半には、ぼくらの委任を受けて国会で働く政治家の最大の障壁である、官僚機構とメディアの実態もシンプルに明らかにしてくれている。ぼくらがふだん聞いているニュースがいかに「そう聞かされてしまっている」かを知る、つまり、そういう罠に陥っている自分のいまを聞くことができるので、ぜひ読んでほしい。

サンティアゴ・パハーレスの処女長編作

サンティアーゴ パハーレス
ヴィレッジブックス

最初にページを開いたのは、3日前。一昨日大半を読んで、昨日の夜後半部分の半分を読んで、今朝家事を放って、フィナーレを読んだ。本を読み慣れたひとにとっては満足感を感じるボリューム、何度も繰り返されるウェーブに酔いつつ楽しいアトラクションのような展開、「主人公が探し求める人間は誰なのか」を推理する熱中度。そして、この物語がスペインから届いたストーリーで、当時若干25歳の青年が書いた大作であることが、よりこの本を読む楽しさを膨らませてくれた。

ぼくのなかで一番欲しているストーリーは、こうした「人」にまつわる物語ではなく、それを意識しない「人も、人でないものも」を語る物語なのだけれど、時折、というか、定期的に、無意識に、ごく自然に、《こちら》の本を手にとる。この『螺旋』も、いい緩衝剤になってくれた。とはいえ、それだけのために読んだわけじゃない。ぼくが嫌いなのは、読んでいて「もうこの手の本はいいよ」と思わされることだけれど、この一冊はそう感じる隙すらなかった。主人公ダビッドと村の女性アンヘラとの距離が次第に近くなっていく各シーンはセクシャルな香りがして楽しいし、悲しみを抱えながら「生きる」ことに注力するエステーバンは、その顔や背丈、立ち居振る舞いをつい想像したくなるほど興味深い。3日間この本と一緒に楽しく過ごせた、という幸せな思いが残っている。それで十分。

スペイン人には幾度か会ったことがあるが、スペインにはまだ行ったことがない。どんな国だろう。スペインというと、ぼくは「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」をすぐに思い浮かべてしまう。一度、全行程を歩いてみたい。それまでに、もう2〜3、良質なスペインの文学作品に出会っておきたい。そんな気にもなった、一冊。

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