法政大学のワークショップ


Photo by Jun Misonou.

法政大学で詩の授業をしてきた。3年前から毎年1度、だいたいこの時期に開催している。「社会教育計画論」は受講生25名ほどのクラス。学校以外の学びのスタイルを考えることが授業の目的。授業名のとおり、受講生は社会教育主事を目指している。地域のひとびとの学び(いわゆる生涯学習)の場を企画運営し、その過程で多様な相談業務もある仕事だ。ぼくが呼ばれた意図は、コーディネートやファシリテートなど技術論に終始偏ってしまいがちな講義あるいは学生の姿勢に対して、頭も感性も手も動かす「実際」を学生に体験してもらうこと(と理解した)。

カウンターで直接他者を相手にする仕事にも、工場でひたすら部品をチェックする仕事にも、共通していえるのは、その仕事が「ひとの仕事」である、ということだと思う。相談しにくるひと、相談を聞くひと、部品を製造するひと、製品を購入するひと。その仕事が成功するには、唯一の鍵を持っていればいいというわけではない。マーケティングも必要だろうし、将来へのプランニングも欠かせないかもしれない。でもそのなかには必ず、コミュニケーションも成功条件のひとつとして挙げられているはずだと思う。コミュニケーションという言葉に、ぼくはどこかシステマティックな印象を受けるので、最近はそれを避けて、「会って話す」と表現している。町のなかに入って、あるときは身勝手な、あるときは切実な、年代も性別も思惑も背景も千差万別のひとびとと「会って話す」仕事をしていくだろう学生たち。だから、素直に、「会って話す」体験ができそうなワークショップを開いてみた。

反応はいいほうだったと思う。実際にこの日出席した16人のうち、数人の心の底には、何かしら落としていけた気がする。「会って話す」ことはむずかしい。できれば、ワークショップという一時的な舞台のなかで行なうだけでなく、その後の日々のなかではたと振り返って意識してもらえたらと願う。

「わたしは詩の授業に来ているんです。」

最近、全然書いていませんが、所沢・精神障害者支援施設での詩の授業は、今年も毎月続いています。今年は参加者それぞれ自分のテーマを決めて詩を書いています。あるひとは「就職に向けて」を、あるひとは「自分の生活」を、あるひとは「モノの気持ち」を。毎月参加していたひとが突然お休みだと何かあったかしらとちょっと気を揉んだり、数ヶ月してひょっこり顔を出してくれるとホッと胸を撫で下ろしたり、そんな日々。

今日もみんなで4つほど詩を書きました。3つはいつも作っている、自己紹介の詩、自分のテーマの詩、四季の詩。4つ目は毎月異なります。ふだん「絵に詩をつける」ことをしているので、今回は「詩に絵をつける」ことにチャレンジしました。え、それ、絵の授業じゃないの。いいえ、詩の授業は詩的な世界を楽しむ授業、だから「詩に絵をつける」のでかまわないのです。

そして、今回もステキな詩や絵をうみだす参加者たち。何の気もなく「これだけできるなら、詩の授業は要らないなー」と言ったら、参加者のうちのひとりが言いました。

なんでですか。
詩の授業に来てるんです。
わたしは詩の授業に来てるんです。


そうか、そうだったんだ。なるほど、そうか、そうか。思わずもらった反応に、この場の意味を知りました。これからも詩の授業は続きます。

俳句の会をひらきました。次回は秋。



今日は、目白の古民家ギャラリーゆうどで句会を開きました。兼題は3つ、「緑陰」を季語に詠む句、「恋」をテーマに詠む句、そして自由句。案内人は、俳人の堀本裕樹さん。句誌『』の編集長でもあります。今年ブックパッカーに参加してくださって、そのときに話した俳句話が盛り上がって、句会を開こうということになったのです。「俳句」も「句会」もぼく自身初めての体験だったので、久々にまっさらな気持ちで時間を過ごすことができました。

17文字の限定的な世界に、自分の感性に映る無限大の世界をおこしてゆく作業。告知から1ヶ月間、創作時間がありましたが、ぼくが創作したのは会の始まる3時間前でした。それでも1ヶ月間、ぼくの目に映り、耳に聴こえ、肌に触れ、心に留まったものが言葉になっていった気がします。また、ひとの作品を評することもまた、自分の感性を知り、そして鍛錬する、とてもいい機会になるのだとよくわかりました。

エコだとかサスティナブルだとか、そういう話題が生活や社会のキーワードになる時代。情報と知識だけを頼りに進めば、また時代は同じ過ちを繰り返すんだろうなと思います。自分の感性でいまを見定める。その力がいまのぼくらに問われているのだとしたら、この句会でちょっくら自分を育ててみるのもいいと思います。次回は秋。ぜひご参加ください。

ウチダゴウ選(10句選/特選3句・秀逸2句)
玉ねぎが 名脇役の 夕食かな
緑陰に 寄れば目覚むる 道祖神
散るごとく 光るごとくに 夏めけり
背伸びして 一輪のバラ 買ひにけり
やまぶきの 舞を踊りて 暖をとる
桐の花 物干場にも 咲き匂ふ(秀逸)
春菊の 芽ぶく畑の 虫の恋(秀逸)
碧き闇 さざめく波の 銀の羽(特選)
胸開けて 躑躅の強く 強くかな(特選)
狼と 緑陰深く 鎮む午後(特選)

堀本裕樹選(特選3句・秀逸6句)
氷すい ぎくりと恋を してしまい(秀逸)
水脈を 辿り集いし 緑陰へ(秀逸)
背伸びして 一輪のバラ 買ひにけり(秀逸)
玉ねぎが 名脇役の 夕食かな(秀逸)
緑陰に 神ぞ宿りし 地球の日(秀逸)
指先の こぼれる恋に 弦鳴りて(秀逸)
緑陰に 輝く小紋 絹字かな(特選)
星震え 産所海鳴り 墓所地鳴り(特選)
散るごとく 光るごとくに 夏めけり(特選)

自作の句(9句)
水脈を 辿り集いし 緑陰へ
緑陰に 差し込む光 その境
志 緑陰より出で 己が道
頬の丘 濃淡の桃 やはらかに
路地裏を 一列で歩く 息二つ
恋情は 尾てい骨より スタッカート
勝手者 に勝手なりの 勝手あり
語り人 よき耳とともに ときを待つ
星震え 産所海鳴り 墓所地鳴り


詩のワークショップの1年間


Creative Commons. Photo by Alvin Bloody Carpio.

13日、所沢のNPO法人しのひで今年12回目の詩の授業を開催しました。昨年12月のちょうど今頃にNPO法人の運営する喫茶店で打ち合わせをし、今年1月から毎月開催してきたのです。受講者はNPO法人に通う、精神障害のある方たち。障害の何たるかをまるで知らないぼくは何を求められているのだろうかと、最初のうちはあれこれ考えることもありましたが、夏あたりに絵本や写真集を使って詩を書いたり、秋には外を出歩くようになって、そんな雑念もなくなり、ただただみんなと詩を書く時間を過ごすことに没頭できるようになりました。

1年間受講者たちと詩を書きながら感じたことは、ぼくと彼らとの違いがより不明瞭になった、ということ。コーヒー一杯をお客さんに出すのに全身を集中させている彼と、詩の授業に向かう車中で頭のなかでぐるぐるアイディアを回転させているぼくに、どんな大きな違いがあるのか。ひとの前で自分の詩を書きそして読むことに緊張し喜びを感じる彼女と、自分の開催する催しにどんなひとが来るのかとソワソワしウキウキするぼくに、どんな確固たる違いがあるのか。ぼくには分かりませんでした。それが分からなかったということ。あやふやになったということ。それこそが、この1年間の詩の授業を通して、ぼくが得た、確かな収穫でした。

法政大学で詩のワークショップを行ないました



毎年声をかけていただいている、法政大学市ヶ谷キャンパスでの詩の授業。非常勤講師の御園生先生が受け持つ『社会教育計画論』という講義で、今回も1時間半、詩の授業を開催してきました。この講義は、社会教育という新しい学びのスタイルを受講者と一緒に模索していくことを目的とするもの。テーマに「伝える力」「伝える思想」をかかげています。そのなかで、「学ぶ=知識や技術を覚えること」にとどまらず、どのように自分のことを他者に伝えるのかという観点で実践的なワークを取り入れたいという要望があり、詩の授業に話がやってきます。

事前にもらった先生からのメールで、「伝える」実践の場をもちたいという気持ちを強く感じられました。当初は詩を使ってどうにかしようかと考えたのだけれど、詩を使うには良い面悪い面があるのです。とくに詩は形式が自由な分、だらだらと長く書くことができます。叙情的でなければいけないといったヘンな先入観も強い。「伝えたい」ことを「伝わる」ように「伝える」のを実体験するには、詩ではなく、コピーでいこう。今年1年間、微力ながら関わってきた広告制作の仕事から学んだエッセンスを、この授業に合うかたちで一心に注ぎ込みました。学生さんにも先生にも楽しんでもらい、かつ、伝えることの簡単さと難しさを授業を通して擬似的にでも実感してもらえたかなと思います。

終わって次の予定まで一休みと入ったカフェで、緊張の糸がほどけたんでしょうね、ぐっすり寝入ってしまいました。ぼくのこれらの仕事は一発勝負です。依頼者が「してやられた!」と思うくらい期待以上のものを、1回だけ与えられた何もかもが初めての場で実現させなければなりません。実現できれば次の話が来る。たくさん回数をこなせれば、その分、詩の授業も洗練されていく。2004年に詩の授業を始めた当初、なかなか場数を与えられずに悔しい思いをしたので、素直に嬉しいですね。そういうときのプレッシャーは屁でもない。自ら生きるっていうのは本当に楽しい。それを実感した1日でした。

ココロの支援所、詩の授業つづいています



今年1月から毎月、所沢の精神障害者就労支援施設「しのひ」で、詩の授業を開催しつづけています。これまで「自己紹介をアクロスティック(あいうえお作文)」でやってみたり、施設や自分の「キャッチコピー」を考えてみたりしました。参加してくれるひとたちはみな、照れたり、軽々とだったり、創作の様子は違っても、自分なりの詩を産み出してくれてきました。

5月の詩の授業開催日は今日でした。1月からずっと、テーマや題材など制限のある詩の創作を繰り返してきたので、今日はそんなことを一切しないことに。ぼくが持っているわずかな詩集をもってゆき、机に並べて、ペラペラめくりながら、思いつくがままに、流れるがままに話すことにしました。大賞コンクールに向けて書いているという小説の話、絵をときどき描いているという話、大地はなぜしばしば母性に例えられるのかという話、アイヌの神様と人間の面白い関係についての話、参加者の病気の話、「自分力」という話、滞りなく産み出される若者言葉の話。1時間半、詩集を手にしながら、ずっと話をしました。

詩の授業、と聞けば、詩の書きかたを学びそうなものだけれど、それを求められているのでなければ、書きかた講習なんてやりません。詩についての話すらする必要なんてないと思います。そんなことより、思いつくがままに、止めどなく出てくる言葉をやりとりする。そのなかで、生まれてくる感情や印象に残るフレーズ、もしかしたらやがて自分の軸にすらなりうるテーマに出会えたら、それこそ詩を書く(というか、なにか表現する)ことには一番の栄養素になるんじゃないか。ぼくはそんなふうに思うから、できるだけ柔らかい授業をやりたいと考えています。

最後に5分くらいで書いてくれた参加者の作品、ぼくはとても好きだったな。
いい加減で、でも、したたか。詩の授業の方針です。

ちいさなイノチの森で、詩の授業


手入れの行き届いていない森に分け入っていく

今月2度目の高尾山に、昨日行ってきました。記念すわりこみ撮影会の会場・和居和居デッキで、高尾山に宿る小さないのちの声を聴く、詩のワークショップを開催するために。

月曜日から土曜日まで、毎日つづくトンネル工事のすぐすばでも、森のいのちはただ当然に生きていくんじゃないか。前回ここを訪ねたときに、感じたことです。そしてたとえばぼくらがするべきことは、トンネル工事への怒りや憎しみを森の小さないのちたちの声にすり替えることじゃなくて、ただそこに生きている小さないのちたちの声そのものをそのまま伝えてあげることなんじゃないかと思いました。主役は、トンネル工事でもなく、工事に反対する動きでもなく、高尾山です。高尾山を長いあいだ支えてきたいのちが主役なんです。


森でひとり佇んでみよう。そこがたとえどんな森だって

手入れの行き届いていない森のなか、辛うじて残る山道を分け入っていくこと20分、少しひらけた斜面が現れます。みんなそれぞれ、自分のいちばん気持ちいいスポットで、自由に過ごしてもらいました。天へ天へと伸びる杉、生きることに忠実な藤、幾重にも散り積もった枯葉、いまにも土に帰らんとする朽ち木、水の流出がとまらない山で、しかしなおただただ、ただただ巡ろうとする水。高尾山の本体と思われる大きな岩盤にも出会いました。岩盤の上は分厚い腐葉土、そこに着床して根を太く下ろした木々。そこだけは空がぽっかり空いていて、いまにも何か降りてきそうな雰囲気でした。


小さないのちの声を、できるだけそのまま伝えてみる。

1時間近く森のなかで過ごしたのち、デッキに引き返すと、あったかいスープと、虔十の会が用意してくれた2畳分のボードが。森のなかで聴いたいのちの声を、できるだけぼくらの意図を差し挟まずに、そのままに、参加者それぞれ詩を書きました。みんなきっと気持ちよかったんだと思います。ボードに書かれたことばはどれも、シンプルだったから。いまがとっても気持ちよければ、あれこれ余分なものを纏おうとはしなくなるんですね。



みんなが書いてくれたボードは、今日から毎日、和居和居デッキに掲げられています。高尾山を訪ねたら、そこにありつづけるいのちの声に耳を傾けて、ボードにどんどんその声を書き加えていってください。

ようこそセンパイ? 母校で詩の授業



15日金曜日、小学3年生から4年間通った母校で、詩の授業を開催しました。かねてから知り合いだった先生が、2007年度にぼくの母校に赴任。夏頃、詩の授業でもやりませんかと声をかけたら、あれよあれよという間に、実現にいたりました。当時一学年2クラスしかなかった母校は、今や一学年6クラス。もちろん当時いた先生も一人もおらず、校舎も大きくなっていました。

今回のクラスは、4年生。みんな、9歳とか10歳とか。自己紹介で卒業アルバムを出しながら話をしていたら、ある子が「まだ生まれてない・・・・」と。ぼくがこの小学校を卒業したのは、13年前だったのです。

<お題>
1 【自己紹介】詩人の仕事、大公開!
2 【準備運動】「聴く」を楽しむ準備運動
3 【詩の創作】「自分の仕事」ってなんだろう?



彼らと何を話そうか、と四六時中思案して、ふと、「自分の仕事」をテーマにしてみるかと思いつきました。職業としての仕事ではなく、「自分がいまここいることで果たせる仕事」についてをみんなと考えてみたい。肩書きや所属をもってこそ価値が生まれるんじゃなくて、いまここに自分が居たいようにいるだけでもうとっても尊いんだということを、いっしょに確かめたい。そんな思いがありました。

仕事にはね、「職業」のほかに、もっとシンプルな意味があるんだよ。それはね、「すること」「してること」なんだ。4年生30人、みんな、ぽかーん。しかもね、「すること」「してること」はそのまま、誰かに役に立ったり、何かのためになっていたりするんだよ。またまたみんな、ぽっかーん。

まずは普段ひとりひとりが「すること」「してること」をリストアップ。「息をする」「ごはんを食べる」「だらーんと寝る」「犬の散歩をする」「野球をする」「きょうだいとケンカする」などなど。次に、リストアップしたそれぞれについて、何の役に立っているか、何のためになっているかを考えてみる。ここでみんな、表情が真剣。わからない、え、なんだろう、えー。ひとりひとり机を回って、話しているうちに、あ、なるほど、の顔に変わってゆきました。最後に、役立ち方がわかった「してること」を、詩にしたためてもらいました。

* * * * * * * * * * * * *

ぼく、弟とケンカした。
次の日妹とケンカした。
その日に、弟と妹が「ごめんね。」と言ってきた。
ぼくは、「いいよ。」と言った。
きっときょうだいの仲がグッと広がったと思う。

* * * * * * * * * * * * *

お題、少し難しかったかもしれませんね。でも、もっとひとりひとりと話ができれば、彼らの「してること」を深く深く掘っていけたなあと思います。その時間が足りなかった。あるいはそのしかけが足りなかった。もう一歩が突き詰められなかった、そんな気がします。また、どことなく、受験勉強の影を感じてしまいました。正解を求める。模範解答を探そうとする。発想がすぐに行き詰まる。あの子たちをもっと自由にさせてあげられなかったのが、とても悔しく思います。

「深さ」の授業をやりたい。90分の限られた時間で、どうやったらそれが果たせるんだろう。小学生や中学生との詩の授業をもっともっと経験したいと、改めて思った今回でした。うーん、また会おう、みんな。それまで元気でね!

アートギャラリーで詩の授業



11日月曜日、矢野マリ絵画展「ささやきとつぶやき」で詩の授業を開催しました。開催場所は、東京都現代美術館のある清澄白河駅から徒歩1分、ギャラリーコピス。詩というアートのひとつをツールにする「詩の授業」ですが、同じくアートの「絵」とコラボレーションするのは、なんと初めてでした。参加者になにを持って帰ってもらおう。参加者のなにか糧となるものはどこにあるのだろう。お話をいただいてから数週間、絵本をめくったり、他のワークショップに参加してみたりしながら、考えました。

<お題>
・アクロスティックで自己紹介をしよう!
・「聴く」を楽しむ準備運動
・絵の声を聴いて、ストーリーを産み出そう!




参加者は8名。保育士見習い、大学職員、福祉職員、ボランティアを楽しむ主婦、雑誌編集者、画家、そして詩人。手順は、まとめてしまえば、こういうこと。どこか吸い寄せられる絵を1枚選ぶ。選んだ絵から、聴こえる限りの「ことば」を聴きだす。聴きだして拾えた「ことば」を頼りに、ストーリーを紡いでいく。今回は、いつものワークショップ以上に、参加者を信じなければなりませんでした。絵から「ことば」をどうやって引き出すのか。いろいろなしかけを考えたのだけれど、どうも、絵と参加者との関係を邪魔したくない。最後は参加者のもっている感性に、このワークショップを預けることにしたのです。

みな、立派にストーリーを聴き取ってくれたと思います。委ねてよかった。預けてよかった。投げやるんじゃなくて、必要最小限のお膳立てをして、あとは待つ。創作の現場は、いつも生なんだ、そのことを学びました。参加者の皆さん、どうもありがとう。

パズルのような詩の授業



土曜日、知的障害者施設で詩の授業を開催しました。場所は有楽町線新富町駅から歩いて数分、レインボーハウス明石。スタッフとして働いている友人からのお誘いでした。参加者は15名ほど。年齢は9歳児から60代まで。友人から事前の打ち合わせで「字を書ける人は少ない」「個人差はあるけれど、理解力は幼稚園児から小学生低学年程度」「初めてのことに取り組むのには時間がかかる」など聞かされていたので、遊びながら、ことばや表現の底のない面白さを感じてもらえたらと、自己紹介といろは歌を扱いました。



今回、「字の書けない」参加者のために友人と考えたのは、日本語46音をラミレートでとじた「音パズル」。書くことができなくても、これなら、選んで並べれば、ことばになったり、文章になったりするというわけ。実際にひとつひとつの音が「目に見えるかたち」でバラバラになっていると、本当にパズル感覚で楽しかったです。限られたルールや範囲があるほうが作業のしやすいという参加者、3つのグループに分かれて、「46音を1つずつ使ってことば・文章を作るいろは歌」をそれぞれ完成させてくれました。

気持ちも乗り気になり、でも「いろは歌」には飽きてきたタイミングで、今度は自己紹介のポエムを創作。なかなか自分ひとりでことばを選んで作っていくことはできないのだけれど、隣に行って、「こんなのはどう?」といくつか案を出してあげると、笑ったり迷ったりして、自分の希望をこちらに教えてくれます。そうやって一編一編を作っていきました。

総評。いままで開催した詩の授業で、もっとも難しさを感じました。と同時に、どうやったら参加したひとたちの深みを引き出せるか、改めて考えるきっかけになりました。小学生よりもアウトプットへのハードルが高い参加者たちを前に、どうしたら「自分から語り出そう」とさせられるか。無理矢理でなく、放任でなく、少し背中を押す力を、健常者たちより強く、でもそっと、ゆっくりと。もっと経験を重ねたいところです。レインボーハウス明石の皆さん、ありがとうございました。

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