ソーシャルメディア
誰もが参加できるスケーラブル(拡大縮小可能な)な情報発信技術を用いて、
社会的インタラクション(相互作用)を通じて広がっていくように設計されたメディア
ディバイド
情報格差。主に、情報技術(IT)を使いこなせる者とそうでない者とのあいだに生じる格差のこと。
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1.ソーシャルメディアというツールを使う
ブログやmixiが盛り上がったと思ったら、時代はスルスルとさらに先へと流れて、今ではTwitterやFacebook、Ustreamがその本流となっている。情報技術がこれからもさらに進んでいくのだろうし、その技術から生まれる数々のツールとの付き合い方や意味合いも、ますます多様に、かつ深くなっていくのだろうと感じる。
ぼくがソーシャルメディアを使いはじめたのは、2010年。比較的、遅い。以前から周囲で「やらない?」と声をかけられたり、メールで招待状をもらったりしていて、そのたびにずっと留保してきた。留保した理由は「必要性のポイントが呑み込めなかったこと」と「当時の生活のなかにソーシャルメディアを組み込んでいく余裕がなかったこと」だったと、振り返る。ファストな世の中から生まれたさまざまな障壁に触れることが、世代的にも、また仕事でも多く、スロウという価値観の咀嚼にエネルギーを費やしていたので、そこにファストのシンボルのようなこれらのツールを取り入れていくのは、「さらにもう一考せねば」と思ってしまう、そんな対象だった。
そのぼくが、これらのメディアを使うようになったきっかけは、何だったか。Twitterは、環境NGO「
虔十の会」の坂田昌子さんのひと言「ゴーサンがやってるイメージはないねー!」が事の発端だった。イメージを転覆させることはとても愉快なことだと、ぼくはいつも思う。このときも、そのスイッチがつい入ってしまった。その翌日、ぼくはTwitterデビューをし、たぶん今では坂田さんより使用頻度も高く、また、使いこなしている。Ustreamは、11月下旬に我が家に宿泊していた夫婦(
伊藤菜衣子と
池田英紀)の影響。宿泊初日の夜、アンテナサイトの土間でUstreamを配信している彼らの景色を見ていて、直感的に「面白そう」と思ったから。メディアという言葉から連想される「大袈裟さ」がなく、パソコンやカメラ、音声マイクなどの多くの器材は使えど、やっていることは「話すことのみ」という、意外な平易さが、距離感を縮めた。写真家とウェブディレクターである彼らは、その後、2011年1月9日の夜、「ソーシャルメディアの夜明け」と呼ばれた「
skmts Social project」の裏方として、活躍した。
2.「人がいる」ソーシャルメディアの可能性
ソーシャルメディアと「人」との関係性に、ぼくは可能性を感じている。
いま現在、ぼくのTwitterページの状況は、こんなだ。まず、ぼくは3つのアカウントを使っている。ぼく自身のアカウントが「
@uchidago」。ブックパッカーの開催情報やアンテナサイトの営業情報をお伝えするための「
@bookpackerradio」。一昨年からディレクションをしている八王子古本まつりのアカウント「
@hachiojibookfes」。そして、この半年で、2000弱のツイート(他で言うところの「コメント」のようなもの)。ぼくがフォローする人の数が275人、ぼくをフォローしている人の数が316人だ。ぼくがフォローするのは、友人、知人、ブックパッカーのお客、広告・創作などの仕事に関連する情報をつぶやいてくれそうな人(会ったことのない人も含む)など。基本的に、知らない人からのリツイート(コメントに対する返事、あるいは話しかけること)でも、「話しかけられたら答える」ことにしている。見知らぬ人に声をかけられて、完全に無視するのは、どうも解せないから。いっぽうで、フォローの関係になるのは、よっぽどのことがない限り、「一度は会ったことのある人」と決めていて、例外的に、「気になる言葉を残している人」や「他のメディアを通じて伝わってくる姿に興味が湧く人」もフォローする(ぼくをフォローしてくれるかどうかは問題ではない)。
こうした自分なりのローカルルールを設けながら、そのなかで、人とのコミュニケーションが硬直することはなく、縦横無尽に交わっていく。ソーシャルメディアの語彙説明にもあった「スケーラブル=拡大縮小可能な」の意味するところが、これだと思う。これまでのメディアの「拡大可能」一辺倒を省みたのか、ソーシャルメディアには「縮小可能」という選択肢が与えられている。つまり、オルタナティブ。オルタナティブな価値観を許容する社会には、同時に、「人が、自ら考え、迷い、選び、動く」という能動的な姿勢が一つのセットとして求められる。受け身的な社会のなかで育てられ、かつ享受してきたぼくらにとって、「人が、自分の主になれる可能性がある」という点において、ソーシャルメディアは価値あるツールになるかもしれない。
3.2011年1月9日 skmts Social project
2011年1月9日、音楽家の坂本龍一氏が自身のピアノライブ韓国公演をUstreamで生配信するプロジェクト「skmts Social project」が起こった。ぼくにUstreamを薦めてくれた友人夫婦がコアに関わっていたこともあって、
ブックパッカーのアンテナサイトはその
パブリックビューイング会場に登録した。
このプロジェクトでは、有料公演をインターネット経由で無料ライブ中継するだけでなく、「ライブ本番以外の、準備段階や舞台裏をも共有」し、「その中継をみんなで観るパブリックビューイング会場を募」った。「これまでインターネット上で完結していたソーシャルネットワークを、現実の場で組織してみると」どうなるのか。そういう実験的プロジェクトだった。
1月9日当日、411箇所のパブリックビューイング会場と個人のパソコンを通して、16万人を越える人たちが、この実験を一緒に体験した。ぼくも会場主催者として、この日、のべ10数名の参加者とプロジェクトを体験し、とても刺激的な「共有感」を覚えた。その感覚はどこから来るのか。
ぼくの場合でいえば、「これだけ大きなメディアを前に、人が置き去りにされていないこと」がかなりのインパクトを残している。テレビや新聞などのマスメディアに対して、人は今や完全に「受け手」に回ってしまっている。それがこの夜にはなかった。音楽を奏でる音楽家と観客という構図があるいっぽうで、それがソーシャルメディアによってつながっていることで「一緒に作っている」感覚があり、言葉や写真を「ツイート」することで「実際も参加していた」。「参加すればするほど、共有できる」という感触を、多くの人は感じたのではないだろうか。これまでたびたび「参加型」をアピールするマスメディアはあったが、ぼくはこの夜、初めて「参加型」を実感したように思う。
4.ファスト&スロウの解釈
これらの体験を経た上での、ぼくのなかのファストとスロウの解釈と、ソーシャルメディアが生む新たな情報格差について、今考えられる言葉を書き残しておこうと思う。
ぼく自身は、ソーシャルメディアを、どちらかというと積極的に、使っていこうと思っている。現に、2010年12月から、ブックパッカーのアンテナサイトから「
channel0053」というUstream番組を配信している。また、2011年に企画するいくつかの催しにも、ソーシャルメディアのぼくなりの活かし方を投影していきたいと練っている。
では、当初ソーシャルメディアを留保していた際の、「必要性のポイントが呑み込めなかった」と「当時の生活のなかにソーシャルメディアを組み込んでいく余裕がなかった」というポイントはどうなったのか。
その問題は、ぼくが松本に移住したことによって、大きく流れを変えていった。新たな生活をゼロから作っていくことで、一つずつ身辺を整理できたことも大きい。そして今、松本という「文化的・環境的にも豊かな資源のある」いっぽうで「それを表現しきれていない」地方都市でこそ、このソーシャルメディアは活かしようがあると感じている。「一個人」が「自ら参加」し「語る」ことのできるツールは、これまでの「地方と都会」のマップを無視することができる。地方であっても、都会であっても、それを語る誰かがいれば、すべてが始まる。「文化的・環境的にも豊かな資源のある」いっぽうで「それを表現しきれていない」ということは、言い換えれば、「まだ知られていないが、語るに値するもの」が有り余っているということだ。2010年に松本に居を構えたぼくにとっては、タイムリーなツールであることに間違いがない。
ソーシャルメディアは一見するとファストなツールであるし、使いかた次第ではファストである。ただ、先も述べた通り、この道具には、とても魅力的な特徴がある。それは「オルタナティブな選択肢が組み込まれている」ことであり、また、「人が自ら考え、迷い、選び、決める練習場になりうる」ことだ。これはスロウなあり方を呼びかけるカルチャーがもっとも重要視する「サスティナビリティ=持続可能性」を支える2要素でもある。また、これも先に述べているように、たとえばTwitterであれば、フォローやツイートの仕方などのローカルルールを自ら決めることができる。外へ外へと「拡大可能」であるいっぽうで、際限なしにならないように「縮小もできる」。これもまた、スロウカルチャーの価値観に通じるものだとぼくは解した。
デザイン関連の仕事に携わる人たちの姿勢には、学ぶことも多い。彼らは、ツールそのものを拒否しない。あくまで「使ってみて判断する」。今回、Ustreamを薦めてくれた夫婦にしろ、そこから繋がっていった「skmts Social project」にしろ、「ツールの欠点を危惧すること」と同時進行的に「これをどう使いこなすか」に注力していくその様から、ぼくが得た「次々に登場するモノコトへの態度のあり方」は大きい。
5.ソーシャルメディア・ディバイド
こうして書いていくと、このソーシャルメディアの最大の特徴が自然と浮き上がってくる。つまり、「ソーシャルメディアは自主的・能動的な人間を支援している」ということだ。そして、そこに情報格差は生まれていく。
東京から松本に拠点を移して、一年間、この街に暮らす人たちと接してきた。そのなかには「メールが苦手」「パソコンは週に何度か立ち上げるだけ」という人だけでなく、「そもそもネット環境がない」という人までいた。それは「情報技術に距離感がある」という単純な話ではないと思う。名古屋で開催された「COP10」を直前まで「コップ展」だと思っていた人もあったし、これだけ芸術を謳う街に住んでいるにもかかわらず「ギャラリーってなに?」と尋ねる人もいた。「外へ広がっていくアンテナを立てる」ことに慣れておらず、そのアクションに能動的になることにも多大なエネルギーがいる。そうした人たちが、日本全国(世界の話をするともう手に負えないので、ここでは国内に話題を限定する)に数えきれないほど多くいて、おそらくそちらのほうがマスだと思う。
「インターネット」の段階ですでに生まれている情報格差が、ソーシャルメディアの出現によってさらに広がるのではないか。ぼくも、このことをどう受け取って、その課題に対して、自分が何をするのかを考えた。
ぼくの答えはこうだ。「ソーシャルメディアを使いこなす人が、まだそうでない人に紹介してあげればいい」。ひどく単純だが、重要なのは、それをチャーミングな手法でやらなければならないということだ。「知っていることの優位性」をもってして伝えても、おそらく、その人がソーシャルメディアに参加してくることはない。「知らなかった頃の自分」に戻って未体験者に接していくこと、一緒に付き添って参加してあげること、重要性や価値よりも心地よさや楽しさを共有すること。それらを念頭に、声をかけてあげることだと、ぼくは思う。それができるのは、たぶん、膨れ上がった社会問題を抱える現代を10〜20代で体験した、今の20〜30代のような気がする。異なる見解をどのように変換してあちら側へ受け取ってもらうのかを、この世代のある層の人たちは、この5〜10年、じっくり考えてきたから。
先日の「skmts Social project」には、そのヒントがふんだんに盛り込まれていた。準備段階や舞台裏の公開、Ustreamならではの映像カット、素人性、参加型、共有・・・・。ソーシャルメディアを楽しんでいる人が、その魅力を、チャーミングな手法によって、まだ使っていない人に対して、どれだけ手にとりやすいものに変換してゆけるかどうか。そこに、ソーシャルメディア・ディバイドの行く末がかかっている。ぼくはひとまず、そのコツを自身のUstream「channel0053」で表現していこうと思っている。
詩人ウチダゴウが語る Small Talk TV
Ustream「channel0053」