郡上八幡で、ブックパッカーを開催しました。そして、考察。




10月31日日曜日、ぼくは岐阜県・郡上八幡にいました。そう、岐阜県で初めてのブックパッカーを開催したのです。会場は、郡上八幡のお隣・郡上大和にある「古今伝授の里 フィールドミュージアム 篠脇山荘」。かつて篠脇城という山城があった山々が借景になっていて、静かに美しい。ちょうど会がはじまるあたりから雨が降り、雨脚が強くなるにつれ、徐々に鈍色になっていく山里。

現地からの参加者は郡上市や美濃市から5名。そこに東京と松本から3名が加わって、計8人。時代小説、デザイン雑誌、地方史、クラフト本、絵本、小説、昆虫資料、レシピエッセイ。多様な本が集まったのと同時に、それぞれの話もまた一つずつ厚みがあったなあ。どんな話だったか、それは後日、ブックパッカーのホームページに詳しく書くとして、とくに感じたことをひとつ。

- - -

言葉にする。声にする。伝える。反応を知る。ブックパッカーで、参加者が本の話をしながら自ずとしているのは、この4つの動きだと思います。頭のなかに描かれるイメージを、言葉に起こす作業。それを五十音のパーツを組み立てて、音声に変換していく作業。その音声を今この場所で対象となる相手に向けて、送信する作業。送った音声とそこに含まれる意味に対して、相手がどのように反応するのか、そしてその反応に対して自分はどう反応するのかを認知する作業。いちいち細かく、ちょっと機械的な解説を加えてみると、たぶんこんな感じになるのではないでしょうか。この一連の作業を、ブックパッカーの参加者は、送信する側になったり、受信する側になったりしながら、時間一杯、繰り返しているわけです。

もちろん、生活のなかでも、ぼくらはこうした作業を無意識に行なっているんだと思います。そして、無意識でいいんだとも思います。でも、それと同時に「無意識に行なっていることを意識する」機会もしばしば必要になるとも思います。とくに、意識される世界がこれだけグローバルになり、なにもかもが大きく動く時代にあって、「小さな一人」であるぼくらは、ときに自分がどこにいてどうあるのかを見失ってしまうからです。そのときに「喋る」っていうのは、大きな役割を果たす。

赤ん坊は、この世に生まれたあの一瞬に、わっと声を出す。「この世に我あり」と、あの場面で宣言する。それは他者に向けても、自分自身に対しても。言葉を知らなくても発せられるものを手当り次第に音声化してくる幼いこどもたちにも、同じことが言えるんだと思います。とにかく、いまここに自分がいて、自分が自分を生きていることを確認しようとする。あの作業は、人間が人間をやっていく上で、かなり重要なアクションなのかもしれない。

ブックパッカーを3年続けて、そして最近、こうしてブックパッカーとともに各地に足を運んでみて、それまでまったく知らなかった土地にいる名もない「ふつうのひとたち」が、初対面にもかかわらず、時間と場所を与えられただけで、これだけ喋るということに、そういうことを考えるようになっています。

コメント
コメントする