もうひとりの彼と


29歳になる今年、高校生のある男の子と出会って、ぼくは彼と話す時間、あの頃のことを思い出してみた。そんな機会をくれた彼に、まず感謝を伝えておきたい。どんなに注意を払っていても損ねてゆく自分の心の足跡を、もう一度振り返るきっかけをくれたのだから。

彼がいま、そのからだのなかで格闘し葛藤しているもうひとりの彼のことを、高校生のぼくもまた知っていた。因果関係を意識できていなかったけれど、ぼくもまたもうひとりのぼくと語り合うために、あるいは逃げるために、一人旅を重ねたし、幾人かの女の子たちに甘えた。あの頃の孤独や周囲のひとたちに与えた傷のことを思い返すと、いまでも罪深さを感じる。人は「悔いのないように今を生きよう」なんて言うけれど、悔いはみな後で起こるものだから、そんなことは不可能だ。そうじゃない。人にできることはただひとつ「いまそのときをそのように生きて」そして「後になりただひたすら悔いて」あることだ。

そして、最近思いはじめていたことだが、あの頃ぼくが出会った「もうひとりのぼく」は、やはりまだ、というか、当然、ぼくと一緒に今も生きている、ということ。自分という人間の相変わらずさに辟易とし、絶望する。「決して彼のことを追い出してはならない」と自ら愛の言葉をかけてやれるまで、相変わらずぼくは葛藤する。人間は、たぶん、生まれた瞬間から、この輪の上をぐるりぐるり歩いているんだろう。昔のことはただ忘れてしまっただけで。

彼を救うようなことはぼくにはできない。彼を本当に抱きしめてやれるのは彼自身、もっといえば、その「もうひとりの彼」しかいない。日本経済にも、社会規範にも、立身出世にも、なんら役立たない、「もうひとりの彼」との長く孤独な会話のための時間と場所を、彼はこれから、やはり独りで守らなければならない。その労苦を思うと、胸が締めつけられる。その過酷に彼が負けないでいられること、ぼくにはそれを願うことしかできない。生きることの孤独を、彼が手放さないで生きることを、強く祈る。



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