再編集の頃

自分史30年間を再編集するときが来たんだなと実感している日々。
自己に対する意識が芽生えた高校生の頃に一度。
二度目は大学卒業の頃、自分以外の違和な存在との関係性の構築に挑んだ。 

そして今。
過去二度の、そしてそのあいだに何度も重ねた数多の小さな修練を、
ぜんぶひっくるめて、もう一度編集し直す時期が来たと、感じている。
こういうときは、皮膚上の輪郭が蠢く感覚になる。

年齢が高くなればなるほど、再編集する年月の嵩も増えているし、
またそのひだの隙間に詰まって見えずにいた「本当」も意味が濃くなっている。
そういうものひとつひとつに向き合うのは、今まで以上に酷だろうなあと思う。
周囲の人間にも、いろいろと迷惑をかけてしまうかもしれない。
で、本人が言うのも何だけれど、仕方がない。 

唯一の救いは、「経験している」ということ。
再編集という営みの必要性も、重要性も、過酷さとともに知っている。
そして、編集後の脱皮の心地よさもまた、ぼくのからだはちゃんと覚えている。

この営みを意識下に持ち上げることができたのは、友人のおかげ。
いま彼女は子を産み、育てている。
時間が流れているんだ、と感じる出来事だ。

再編集をいざはじめると、一度、自分の存在が曖昧になる。この瞬間は、怖い。
いまその怖さの岸壁に立って、飛び降りるタイミングを待っている。
谷は深い。空は高い。人生は、遠い。



コメント
コメントする