本心

昨日から友人の子ども(3歳と10ヶ月)を預かっている。彼の一挙手一投足、その日々の成長に感銘を受ける。命が生きることを率先して営む姿は、こんなにも美しい。ぼくはこういう小さな成長―人間に限らず―を、十分すぎるほどに観察していたい。

本音を言えば、環境問題も、原発事故も、政治の不在も、かかわりたくない。どうでもいいとも思っている。が、ぼくの生きている世界は、ぼくが物心ついた頃からすでに、そういう世界だった。だから、かかわらざるを得ない状況にある。見てみぬふりもできる。が、ぼくが少なからずそうした課題にかかわってゆくのは、社会や世界を改善したいからではなく、ぼく自身に巣食っている闇との均衡を図りたいからだと、思う。

正直に告白すると、いつも親世代以上の人間たちに邪魔されてきた、と感じている。以前ぼくより20ほど年の離れた友人とその話をしていたら、彼は「どの世代もそれを繰り返しているんだなあ」と言っていた。ただ、それまでの世代間の摩擦が文化的なものに起因するのに対して、ぼくらの世代が火花を散らすのは、もっと根源的な、命の危機、という点に対してだと思う。

実はつい最近まで、もうそういう恨みの感情は清算できた、と思っていた。思い込んでいた。が、今年、創作の再開とともに、自らの感情の歴史をもう一度紐解いていったなかで、その恨みや憎しみがいまだに消えていないこと、いまなお学ばない彼らにその感情がさらに闇を濃くしていることを知った。

「憎悪によって物事は解決しない」のはわかる。が、それは「解決することを目的に定めた場合」のロジック。憎悪の存在そのものを、ぼくは否定しない。ぼくが頷いてあげなければ、この世界で、いったいだれが、あの独りぼっちの感情を抱きしめてあげられるのか。

環境運動家でさえ、「もっと希望的な話を」と請うてくる。冗談じゃない。晴らす方法もわからずに闇を覆わせておいて、そのなかで生まれた子どもに「光を探さないのはナンセンスだ」と追及してくるなんて、そちらのほうがナンセンスだとぼくは思う。「よりよくする」ということばかりに執着して、「いまどうであるか」に意識が向かない。それは、戦後、盲目的に「よりよく」を目指してきた歴史と、何一つ違いがない。ベクトルの方向は異なっても、ベクトルそのものの形成に学びがない。闇を振りまいた張本人たちが、闇の存在が怖くてならず、「始まり」をどうにか探し出して、いま目の前に横たわっている「終わり」の一部始終から目をそらす。ぼくはそれが、我慢ならない。

ぼくの書く物語は、どこかで自らに宿る憎悪に呑まれまいと必死に抵抗している葛藤のかたち、しかしいっぽうでそんな感情のことが可哀想でならないという奇妙な自己愛のかたちなのかもしれないなあと思う。そんな動機で、ものが書かれ、人に読まれることがいいのかどうか、わからない。が、読むも読まないもその人の選択に委ねられている。人間という自然の一部の、そのまた最中に「ぼく」という自然が存在している以上、これは仕方のないことだ。受け容れるなり、受け容れないなり、してもらえればいいのだと思う。


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