親族ではありません

 
東京で働いていた職場によく出入りしていた学生S君が、いまは卒業して、某有名ジャーナリストの事務所で手伝いをしながら、フラフラしている。フラフラついでにいまはアウシュビッツに行っているらしく、何とも羨ましい。アウシュビッツに行く前、彼は我が家に停泊。朝4時くらいまで談義していた夜(ええと朝なのか夜なのか)、彼から本を借りた。

ビッグピクチャーとスモールピクチャーのあいだを確かな足取りで往き来できる日本人は、それほど多くないのだけれど、著者は確実にそのうちの一人なんだと思います。「彼の本なら間違いはないだろう」という安心感がある。それゆえに彼の著書を焦って読む必要もなく、1〜2冊を読んで以降、離れていました。それが先日、夜な夜な話しているうちに「今の話、これに書いてることと通じてる!」と彼が言うので、借りて読むことになった次第。

ぼくの関心事は、出版されるたびにことごとくベストセラーになる内田樹の著書の読者は、彼が伝えてくれる世界像やその根幹のこと、そしてそれを伝える際に用いられる言葉や文体に対して、なにをどんなふうに感じて、そして、獲得したものとその感触をどのように自分に生かしているんだろう、というところ。日本人の、つまり「自分」の決定的な欠陥(善い悪いとは別の、ひとつの性質としての欠陥)を暴かれたときに、彼の著書の読者はそのときその瞬間どうなっているんだろう、と思うのです。怒るのか、慌てるのか、「俺は違う」と言い張るのか、どうなのか。そこがいま一番知りたい。

著者は日本人の「学ぶ」力について触れて、その際一カ所だけ、「日本人に未来はない」と断言しています。読者は、こういう絶望感のなかで、その絶望感と自分とがほぼ同一のものであることに逆らわずに、ただ静かに立っていられるのかどうか。どうなんでしょう。ちなみに、ぼくにとっては、とてもエキサイティングな、ワクワクするような瞬間なんです。(絶望しないのではありません。むしろそのつどちゃんと絶望する。ちゃんと絶望したがゆえに「絶望となかよくなる」感覚)


追伸:
内田有紀やら内田恭子やら、一時期、メディアに内田姓の人物が登場すると、すぐに「親戚?」と尋ねられたので、以後、内田姓の人物が現れるとビクビクします。タイトルのとおり、親族ではありません。

動物行動学者が口説き上手だったわけ


松本には、残念ながら好きになれる本屋がない。というのも、ぼくには「目当ての本」があることがほとんどなく、本屋に行って数時間過ごすうちにばったり出会う、というやりかただから、大前提として、すべてのジャンルにおいて品揃えが豊富でなければ「好きな本屋」にならないのである。だから東京へ行くと、真っ先に池袋・ジュンク堂に向かう。お盆休みのあいだにもしっかり赴いて、6冊ほど手に入れた。

実は最近、そそられる小説が少なくなった。タイトルを目でなぞったところですでに気持ちが萎えてしまって、手すら動く気配がなく、本棚の前で呆然と立ち尽くすばかり。でもその理由がようわからん。なぜだろうなあとフワフワと思いながら、あることに気づいた。書かれているのは、人間のことばかりだ。恋愛、情念、自立などなど、内なる自然を自らいじくって取り返しのつかない状況まで進んでしまった一生物の、気持ち云々の話は、本のなかで楽しむにはもうむずかしい。そういうことは、実生活のなかで身をもって体験したほうが、よっぽど「読み甲斐」がある。

だからなのか、数年前から、生物学とか、昆虫とか、そういうほうに少しずつ少しずつ、興味が遷っている。今回の本漁りで唯一無意識にピンときたのも、昨年亡くなった動物行動学者の生きた軌跡を辿る、この一冊だった。読んでいると、この御仁、人間としての動物行動学者の裏側に、しっかりと動物としての生を全うしていたのではないか、と窺える。多ジャンルの人たちとさまざまな仕事に携われたその秘訣は、「人柄」だけじゃない、というか、その根っこにちゃんと生物本来の自然が宿っていたからなんじゃないか、と思う。

フワフワ人を輩出する大学

東京から松本へ、ブックパッカーといっしょに棲み家を移した折、友人知人からたくさん本を譲り受けた。譲り受けたはいいものの、その後なかなか読むことができず、いっぽうでアンテナサイトはオープン、本を探しにやってくるお客もあることだし、譲り受けたあの本たちをそろそろ読んであげなければ、という気持ちになってきた、8月。

これは、昨年暮れ、故郷の岐阜・郡上八幡に帰っていった友人がくれた本、だと思う。サニーデイ・サービスのヴォーカル、曽我部恵一のエッセイ集。バンドがもっとも多忙だった頃に連載されていたもの、だと思う。全編に渡ってフワフワしすぎている文章なのだけれど、それが真逆の多忙さゆえの夢遊感のように感じた。とはいえ、フワフワしすぎている。サニーデイ・サービスも曽我部恵一のこともほぼ知らないので、おいおい彼はどこから来た人間なんだと調べたら、ああ、なんということか、同じ大学の出身だった。そうか、と納得してしまうところが、また無念。しかし仕方ない。あの大学出は、みんなどこか、フワフワしているんだ。エリア・フワフワ、フワフワ人輩出のメッカである。

彼の略歴からあれやこれや辿っていると、ふと、表表紙のリンゴが、毒リンゴのように思えてきた。気をつけて、フワフワ病にやられちゃう。万が一フワフワしたい方がいたら、どうぞ、うちにあります。



「生き終わった人々の、その人生全体への、共感」から


3月31日に東京・国分寺のカフェスローで開催したブックパッカー(その様子はこちら)で、ひとりの参加者が紹介してくれた一冊。ものすごく興味をそそられたが、「書店に並んでいるところはあまり見たことがないから手に入るかな・・・」といわれて残念に思っていたところ、久々の池袋でジュンク堂に立ち寄ると、あるじゃないの、さすがジュンク堂。迷うことなく購入して、読んだ。

全五話の構成で、第一話と第五話がノンフィクション、そのあいだの三話はフィクション。1939年生まれ、御年71歳の著者が「「墓」に近づいた私の年齢ゆえ」に、墓、その背後に浮かぶ「生き終わった人々の人生」への思いを綴っている。カトリック信仰の影響なのか、死者への共感力がものすごく強い。その感性が、ノンフィクションとフィクションの垣根をなくしてしまっていて、第一話から第五話まで通して読んでいると、本当にノンフィクションなのか、本当にフィクションなのか、あやふやになってくる。物語的には第三話の『ある小説』が面白いのかもしれないが、ぼくが強く惹きつけられたのは第五話『メラニーという女性―ドキュメンタリふう人物群』のほう。1846年に聖母マリア出現を見たメラニーという女の、そのことゆえに辿ることのなった放浪の辛い人生が、彼女にかかわるそのほかの人物群とともにドキュメントされている。著者によって淡々と静かにレポートされているだけなのだけれど、そのためにかえって、体の奥のほうまで、「生き終わった人々の、その人々の人生全体への、言いようもない共感」(著者談)が迫ってくる。

ここ1〜2年、「もののおわり」についてぼくは感心があって、この本も、そんなひとつの流れのなかで巡ってきた一冊になる。




手繰り寄せるための巡礼



気がつくと、けっこう立て続けに本を読んでいる。仕事がそれほどない(と思い込んでいる)のをいいことに「今日はカフェで本を読もう」と自転車でチャラチャラ出かけているのです。ブックパッカーのアンテナサイトも毎日ひとが来るわけじゃないので、うっかり店番気分でいるとつまらなくって、それくらいチャラチャラ出かけるほうががちょうどいい。

昨日紹介した『ともいきの思想』のあと、短い時間でさらっと読んだのが、この一冊『縄文聖地巡礼』。人類学者の中沢新一と音楽家・坂本龍一が、日本の古代縄文の奥に眠っている精神世界を、いくつかの聖地を巡りながら追う、という構成。この手の本を読んでいるひとにとっては「新鮮な話」ではないかもしれない。というより「そうだよね、うんうん」と再確認する一冊といった感じ。対談本は中身のクオリティがいささか落ちると苦言を呈するひともいるけれど、ま、裏を返せば、大事なことに通じる話題にさらりと触れられる利点もある。語り手がふたりともきめ細かい大きな視座をもっているので、ゆったり読めて、不快感もなく、いい本だと思う。

この本を勝った理由は、実は、中身よりも、装丁。出版社から直々に、装丁のコンセプトの説明があったりして、おうおうずいぶん前に出てくるじゃないかと、楽しかった。

パワースポットと聞きつけるや否や、わーなんかもらうぞー!と意気込んで、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするひとたちも、もう一歩、こういう古層まで読み込んでいったらいいのに、とも思う。もらうための聖地巡礼でなく、自らを手繰り寄せるための想う巡礼へ。



なにか、なあ、という感覚

年明けから数ヶ月、最近、久しぶりに本を読む。もっともまったく本を読んでいなかったわけではないので、もう少し丁寧に言うとしたなら、ここ数ヶ月は「自分、本を読んだな」という感覚をしばらく持たずに本を読んでいた、という表現になる。で、久々に「自分、本を読んだな」という感覚に、いまいる。ひとのなかに本来なら常にあるはずの揺らぎを、意識下にもう一度引っ張りあげてくれる本だった。数年前に買って、ようやく読んだ。

なにか、なあ、と言葉にならない声が、心のうちに漏れて聴こえてくることがある。そういう釈然としない、居心地の悪さは、最初のうち、たいてい、ぼくの場合、他者に向けられる(と思い込んでいる)。「あのひとのああいうところが」とか、「彼のあのやりかたはどうも」とか。あるいは社会に対して、世界に対して。が、そのうち気づく。他者や社会に投げつけたそれらの難癖は、ぼくのなかのぼくの不存在が発祥地になっていることに。自分が自分を追い出しはじめているそのことへの違和感が、「なにか、なあ」の本当の根源にある。そのことにはっとした瞬間、自分が恐ろしくなる。深い反省の念に襲われる。もうそんなことを何年も繰り返して、まだ学ばない。困った、困った。


レイチェル・バーンズへの言葉

2月20日のトークイベントから10日が経つ。そのあいだ、松本移転の準備に明け暮れていた。ブラインドをとりつけ、電話を引き、無線LANの設定をし、仕事部屋に置く作業机を木工職人の手ほどきを受けながら制作。それらに没頭しながら、まだ手をつけられずにいるこれからの準備のことで頭が一杯になっていた。

「レイチェル・バーンズ!私があれほど『裏庭(バックヤード)』という言葉を使わないでくれっていったのを忘れたんですか。『前庭』なんて、ただの玄関に過ぎないんです。いわゆる『裏庭』こそが人生のほんとの表舞台。『裏庭』こそが生活の営みの根源なんですからね、きちんと『庭(ガーデン)』と呼んで下さい。」

これは、梨木香歩著『裏庭』の一節。この台詞にあるひと言ひと言の重みは、物語全体を読んだ上でこそ読者に響いてくるものなのだけれど、こうして切り抜いて読んでみても、ひとを立ち止まらせる力があると思う。学生時代に読んだこの本が、その後、ぼくの、人生や自分自身に対する付き合いかたに多大な影響を与えた。

「自らを語る・伝えるところからしか世界は変わりようがないんじゃないか」20日のトークイベントで、建築家の大岩剛一さんにぼくは尋ねた。大岩さんの返事は「ぼくもそう思う」と答えた上で、さらにこう付け加えた。「自分の過去を振り返ることが大事だと思う。ひとはつい先のことに執着してしまう。自分がいつどこで何を見聞きし、そのとき何を感じたか、どう生きてきたかを振り返ることの重要性は、若者でも年配のひとでも変わらないものだと思う。」

昨晩、大岩さんの言葉と『裏庭』のなかで放たれた台詞が、頭をよぎった。そして思い出す。10代後半の頃のぼくは、自分史を好んで書いていた。きっと、作家のだれかが書いた自伝に影響されたのだと思う。一度だけでなく、何度も。書きながら、なんちゃって作家気分を味わっている自分をばからしく感じていた節があるけれど、あの何度も書きつづけた自分史が、ぼくのいまの「裏庭(バックヤード)」になっていて、他者にとってはぼくそのもの、すなわち「庭(ガーデン)」として映っているのかもしれない。

大学に入ってしばらくして、自分のこれまでを振り返ることを、意識的にやめた覚えがある。その作業のなかで再現される過去は、すべて美しいものというわけにはいかない。そろそろ先に進もうと思いはじめていた当時のぼくにとって、そのとき過去との対話は煩わしくなっていたのだと思う。それからすっかり、「裏庭(バックヤード)」との「会って、話す」作業は忘れてしまっていた。

いま一度、思い出してみようかと思う。あのとき、あの場所で、ぼくが何を見て、聴いて、感じていたのかを。知人が言っていた。「松本のあの家は、外に発信する場所ではないね。それをしたいのなら、何か、力をつけなければいけない。あの場自体は、こもる場所です。」


バリアオーバーコミュニケーション



大学仕事の4年間を通しての、ぼくにとっての大きな収穫は、何といっても、障害のあるひとたちとの交流であり、また障害そのものの存在を知ったことだと思います。知的障害、肢体不自由、聴覚障害、視覚障害。メディアをとおして、それも報道番組で稀に扱われる短いニュースやお涙頂戴の民放番組などでしか知らなかった世界を、ただ当たり前の人間同士としての付き合いのなかで再構築できたことは、ぼくの財産になるといっても過言ではない。ぼくのこれからの仕事にもできることが確実にあるし、また可能性も秘めていると思っています。

なかでも、たびたび興味深い話を教えてくれた全盲の言語学者・堀越喜晴さんとの出会いは、おそらくこの大学仕事がなければ、彼の主張することはおろか、彼の名前すら知らずに一生を送ったのはないかと思います。その堀越さんが、今年著書を出版。さっそく買って読みました。変わらずの立ち位置。そういえば前著『羊のたわごと』を読んだあと、何回かメールのやりとりを交わしたことがあったっけ。そのときも、この話をしていた気がします。

バリアオーバー。壁をなきものにしようとする「バリアフリー」ではなく、壁があるという現実を認識し、その認識を前提に、その壁をどう越えようかと検討を重ねようと試みる「バリアオーバー」の意識。

今日、立教大学で堀越さんをゲストに開催された講演会は、著書と同題。ぼくは今回この講演会のチラシを作らせていただきました。そうだ、そのチラシをブログでも紹介しましょう。キャッチコピーは「壁がある。ひとは話したい。」でした。

心地よく暮らす

暮らしのアイデア帖 住まい編

心地よく暮らすことに関して、ぼくはまだ素人だと思う。今回松本への移住を決めたのち、現地で住むことになる家探しをしているあいだ、そして家が決まったあと、その空間のありかたをイメージする力が乏しいことに気づいた。健全な身体に健全な精神は宿る、と言う。ならば、「空間」の善し悪しがそのソフトウェアである「暮らし」に影響を及ぼすことも想像できる。

そこで手にとってみた本。この手の本はこれに限らず、よく似た、それでいて実際に有用な本が星の数ほど出版されていて、どれを選んでみても、それなりのアイディアが掲載されている。だからきっとどれを手にしてもいいのだけれど、たとえばこの本でぼくが「ああ、いま学んでいるなあ」と感じたのは、ひとつの部屋、ひとつの家という空間を心地いいものにしているひとほど、そのカスタマイズを繰り返し続けていて、そのことに労を惜しまないことだ。

自分のありかたについて、自分の暮らす空間について、その暮らしについて、どうありたいかをそのつど考える。大げさかもしれないけれど、その意識はひとを「いま」「ここ」にとどめてくれるという大きな価値がある。

大きな耳

大きな耳―音の悦楽、音楽の冒険

日曜日、リビングワールドの西村さんと久しぶりに会います。その場で何が起こるのか、いまから少しずつ緊張感が伝わってきています。

『自分をいかして生きる』出版と合わせて青山ブックセンターでトークイベントに出演した際に、彼が並べたお薦めの本がホームページに公開されています。そのうちのいくつかを読んでいます。この本もそのひとつ。西村さんも述べていますが、章がひとつひとつ短いうえ、翻訳が平易なので、読みやすく、ストレスかからず、著者の言葉がすんなりと聴こえてきます。“音や音楽にまつわるワークブック”ということだから、「著者の言葉が読者に聴こえる翻訳である」ということはさりげなく、でもなかなか重要なことだと思います。

まだ最後まで読んでいません。実用的な本も読みたくて、並行して読書中。西村さんの前著『自分の仕事をつくる』の底本がこの本の最終章だというので、楽しみです。

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